今起きていることで特に何か悪いこと
(自分にとっては悪いという出来事)が
起きたとき
ついつい「~のせいだ」と自分以外のこと
人のせいにしていないだろうか。
起きていることが
すでに自分の内側にあることが
現れているだけだと受け入れられると
責めるところはどこもなくなる・・・
目の前の嫌な出来事が、人が
自分の内側とはなかなか認められない・・
人も多いだろう。
私もそうだった。
でも自分の内側にあるもの以外は見れないし、
感じられない。
同じ人を見ているのに
見る人によってその人がいくとおりにも見られる。
「あっさりして素敵な人だ」という人もいれば
「あの人冷たいよね~」という人もいる。
どの感じ方がよい悪いということではなく
それが「あの人はそういう人だ」
ということではないということだ。
そんな時は「廻りに見ているものは全部自分」
ということを思い出してほしい。
もしそれが心から腑におちたとき
目の前の人が他人ではなく
自分が映っていると思えば
その鏡の中のものをいじろうとか
直そうとかは絶対にしないだろう。
鏡に映しだされた
元の自分の姿を直すに違いない。
反対に自分の思いや姿を変えると
鏡に映った自分は自動的にというか
当たり前に違う自分を映し出す。
見る世界が変わるのは
当前である!(^^)!
道端に咲いている花を見て
「あなた、桜のほうが落ち着くから桜のように咲きなさいよ」
とその花自体をいじくりまわしたりしないのと同じだ。
そして人間だけは自由意志を与えられているので
どのように想おうが自由なのである。
その想うだけでそれを目の前に見せてくれる
この世界はすごくないだろうか?
人や他のもの、出来事のせいにしているうちは
「本来の自分の姿」というものから
いつまでも目を背けていることになる。
ものや人との出会いがあることで
自分の中にあるものを自覚させてくれる。
現実の世界にしっかり投影されているんだと知る。
受け入れるということは
どのように自分が人生を生きたいかを描く
最初のスタート地点だと思う。
なぜなら自分が何者かもわからなければ
廻りに影響されることで反応する人生で終わってしまい
自分が主役の人生はいつまでたっても歩めない。
目には見えないけれど
自分のその確かな部分とつながり
自分の奥深いものを信頼できたならば
それほど安心できる
自分の本質に沿って生きる生き方はない。
その見えないものを、廻りのものが、人が
こんなにリアルに見せてくれるこの世界は
本当にすごいのだ。
一度、鏡の前に立って
自分の姿を映し出し
鏡に映った自分の眼をしっかり見つめて
聞いてみるとよい。
一番信頼できる相談相手なのだから。
人生の主役は自分だったんだと感じることだろう(^.^)